60歳までに2度の肉親の葬儀を経験。納骨によって故人は仏となり、家族に日常が齎され、葬儀の締めくくりとなる。

押えておきたい常識集 葬式と納骨について

納骨実体のある最後の別れと葬儀の締めくくり

私は今年還暦です。60歳になるまで2度の肉親の葬儀を経験しました。今は、家で祭壇を設置し、通夜を行う家庭は少なくなって来ました。葬祭会館を利用し、葬儀一式を行うことが殆どのように思います。私が父と祖母を送った昭和50年代は、家に祭壇を設け、和尚が家に来てお経を上げ、家から霊柩車で火葬場に運び、と家中心に葬儀が行われることが当たり前でした。自ずと死出の旅支度もさせたものです。経帷子に手甲、脚畔ということになりますが、父の時には浴衣で代用、白足袋にわらじを履かせ、三途の川の渡し賃としては、六文銭の代わりに5円玉を入れたように記憶しています。葬儀の仕来たりも段々と薄れて来ています。火葬にする前の肉体が存在しているときには、目覚めることのない肉親を見る度に涙が止まらないのですが、不思議と火葬が終り、骨を拾い骨壺に納める頃からは、肝が据わって来ます。死と別れを現実のものとして受け止め、きりっとした理性が涙を堪えるのです。軽い骨壺を母が抱え、墓へと運びます。軽くはあっても故人の実体のある肉体が納まった愛おしい存在です。ほんの数日前までは生きていたのです。62歳の若さで逝ってしまった父に、当時20代の私は言うに言われぬ口惜しさを感じたものです。まだまだ教えて欲しいことが沢山あったと。人の命の儚さをしみじみと思い知ったものでした。墓が開けられ、骨壺を石の室に納め納骨します。ゆっくりと墓が閉じられ、骨と化しても実体のある父の肉体が完全に地中に納まりました。

これが故人との最後の別れ、五感で認識できる実体は消え去り、モニュメントとしての墓石があるばかりです。納骨によって故人は仏となり、残された家族に日常が齎され、葬儀の締めくくりとなるのです。何世代にも渡って続いて来た営みであり、抗うことのできない理でもあります。母は90歳、私は60歳、次の納骨が自分にならないように祈るのみです。